元患者さんから
焼酎大好きの嫁 闘病記
A.T(主婦)
 2003年2月3日の節分明けの朝、私は数ヶ月前から気になっていた息切れが心配で近くの総合病院へ行きました。血液/尿検査、心電図をとり後日結果を連絡しますということで、一旦自宅に帰り昼食をとっていると、病院から電話がかかり「急ですが直ぐに入院してください。このままでは血が足らなくなって死んでしまいます」と言われました。突然のことに何がなんだか分からない状態でしたが、小学校1年生と幼稚園の子供を残したまま入院できない為、「今日は無理です」と伝えたところ「死んでもいいのですか?」と言われたので、友達のお母さんに子供を預け入院しました。両親には病名は分からないけれど血液の病気だということは伝えました。
 翌日から検査の日々。その病院では血液内科は無かったので、骨髄採取(胸の骨より注射針で骨髄を採取:マルク)は医学書を片手にする始末で、胸の上にコンクリート片が落ちてきたような激痛でした。
 入院して間もなく医師が紙を渡してくださいました。そこには可能性がある病名が書かれていました。「白血病、再生不良性貧血、骨髄異型症候群、悪性リンパ腫」と。
 病名も分からないまま、何の処置もしてもらえず、ただいたずらに時間だけが過ぎて2週間がたつ頃、主人と私が別の部屋に呼ばれて「白血病です」と言われました。告知の場に同席されていた婦長さんの顔は「もうだめですね」と言っているかのようでした。
 頭の中は何がなんだか分からない状態でしたが、真っ先に浮かんだのは子供達の顔のこと。自分が死んだらどうすればいいのだろうか。次に主人の事を思った時に、「ごめん、私と結婚したばっかりに、こんな思いをさせて」という言葉が出てきました。
 自分の部屋に戻って初めて先生に言われたことの重大さに怖くなり、絶望感で涙が出てきました。
 告知後数日で、血液内科のある病院に転院しました。新しい病院でも検査の連続。特に歯だけはきちんと治療しておかないと、抗癌剤による治療時に、菌が入りやすいとのことでした。
 個室に入り、いよいよ大量抗癌剤の投与開始。(それも一番きついタイプを)最初の日から私はもう死にかけていました。気が付くと、顔はしわしわ、髪の毛は一機に全部抜け落ち、骨と皮の状態でした。その時にはもう何も考える気力はありませんでした。
 1回目の抗癌剤治療が終了したと思っていたところ、医師からは「抗癌剤治療が効かなかった」との厳しい報告がありました。
 落ち込んでいる間も無く次の治療計画や、移植に向けて親族のHLA検査が行われました。全国から、従兄弟達が集まってくれました。嬉しい限りです。そして採血してもらいましたが、従兄弟間では何万分の1の確率しか無いこと、一人当たりの検査料が高額という事で、十分検討した結果、採取した血液のHLA検査は行わないことになりました。
 親族のHLA検査結果は、親とは合わず、弟とは2座不一致でした。その為、骨髄バンクで調査したところ、日本に一人、東南アジアに一人、アメリカに一人しかいませんでした。日本の一人に依頼をかけたところ、断られてしまいました。(医師からは骨髄バンクに登録していても、その後の病気や妊娠で出来なくなることがあるそうです)
 先生も悩んだ結果、2座不一致の弟の骨髄を移植することになりました。6座全てが合っていない骨髄の移植へのためらいや不安、なにより自分のせいで弟を傷付けてしまう申し訳なさがありましたが、小さい二人の子供達の為にも生きなければならないという責任と、両親より先に死ぬ訳にはならない、という気持ちで頑張ろうと思いました。
 弟は私に「とにかく生きてくれ、そして元気になって!」と言ってくれました。
 私は今までは自分一人でも生きていけるくらいにしか思ってなかったのですが、病気をして無菌室に入ってみて分かった事がいっぱいありました。息ひとつするのも、トイレで排便をするのも、見たり聞いたりするのも、歩くのもできてあたり前だと思っていましたが、病気をしたらこれのどれ一つとってもすごく大変な事なのだと。そして洗濯も着替えもお風呂も何一つ自分でできない毎日を個室で過ごすうちに、私は生きていたんじゃなくて生かされてたんだなと気がつきました。
 私が病室で出来る事は、毎日来てくれる人に「ありがとう、すいません」と言う事だけだったので、来てくれた人に快く帰ってもらえるように明るく振舞う様にしていました。とは言え,私も人間ですから、そんな事ばかりはできません。
 そんな私の愚痴を言えるのは、主人でもなく親でもなく、看護婦さんと病気仲間だけです。励まされたり、ただ何時間も話を聞いてくれる、それだけの事がどれだけ救われたか、言葉では言い尽くせません。
 そして、私は弟からの骨髄液で骨髄移植をして数ヵ月後に退院して、定期健診だけでいける程元気になって2年が経とうという時に、検診で再発が見つかり1度ならず2度も移植をする事になったのです。
 その時の気持ちはもうパニック状態です。
 1度目の方がまだすんなり受け入れられたのですが、2度目となると、どういうことをするのか分かっているし、それがどんなに辛く、しんどいものかと言う事を身にしみていたので怖かったです。
 私の口から出たのは「もう移植はしたくない。死んでもいいからこのままでいさせて下さい」でした。
 その時、婦長さんが私に言ったことが「死ぬのも簡単には死ねないんだよ。苦しんで死ぬんだよ。だったら生きる為に苦しんだ方がいいんじゃない?」と言われたのです。
 私は簡単に死ねないと分かったら、もうやるしかないんだ!と覚悟が決まり、また再度前向きに頑張る事にしました。
 2度目も弟からですが、今度は弟の末梢血から採った幹細胞を移植して、前より強いGVHDを出さないと効かないと言う話でした。
 そして、2度目の移植。
 しかし、何故か2度目の方が、私は1度目よりも随分楽だったのが不思議でしたが。それまでに色々ありすぎて、神様が少しだけ負担を減らしてくれたのかな?と勝手に思っているのですが。(どうなんでしょうね?)
 現在2人の子供と主人に囲まれ普通の生活を送っています。
 病気になるまで、普通に生きて、普通におばあさんになって、普通に死んでいくものだと思っていましたが、誰もがある日突然何が起きるか分からないという事を身をもって体験して、人の好意というもののありがたさを知りました。
 移植でしか助からない私に、弟は骨髄液をくれました。もしそれがなかったら確実に私は死んでいたでしょう。HLAの型が全部合ってなかったにもかかわらず。
 それでも、人は希望があれば、諦めずに前進できるのです。でももし希望がなければ、死を待つだけだとすれば、生きていく気力が持てないのです。
 私の様な病気の方の為に何か出来る事をと、今、主人は私がたくさんの血液をもらったので、お返しにと献血に励んでくれてます。そして骨髄バンクの会でも色々とやってくれています。
 どうか1人はみんなの為に、みんなは1人の為に頑張れる世の中になりますようにと願う今日この頃です。       
 ありがとうございました。
inserted by FC2 system