九州バンクだよりに23回にわたって掲載
されたものを再掲載させていただきました
「告知されて」  中川 里枝子
 どんな病気でも治療の難しい場合ほど、本人に告知するかどうかは、家族にとって大変ななやみではないか思います。私の場合には、図書館や書店へ行き調べていましたので医師の告知の前にある程度はわかっていました。
 平成8年12月の夜、左の手のひらが紫色になり、家から20分ほどのところにある救急病院の内科へ行きましたが、病院へ着いた時には色も肌色に戻っていて異常なし、20年くらい前に左手首の骨の人工骨移植手術を受けていて、そのときのキズが何かの事情で手のひらの色が変わった可能性があるので外科へ受診する様に言われて帰宅しました。
 気にはなっていました、その後は何事もなく痛みもなかったので1ヶ月ほどが過ぎ、やっと整形外科へ受診しました。その時に両手首の骨をくらべて見るためにレントゲンをとり、右手首の骨にも異常が見つかり、左手と同じ様に人工骨移植手術を受ける準備の為に血液検査をして帰りました。
 次の日、整形外科の看護婦さんから「本日午前中に院長の診察を受けてください」と電話がありました。
 何だろうと不安になりながら行くと、白血球が多いので、すぐに内科へ行くようにとの指示でした。
どこか内臓のガンだと思い質問すると、「白血球の増加にはそういう場合もあるけど血液独自の病気の場合もある」との答えでした。「右手の骨よりも先に血液の病気を治しなさい」と言われ、紹介状を書いていただき、その日のうちに内科を受診しました。
 何が何だかわからないうちに、腕と耳からの採血、胸部レントゲン、腹部エコー検査を受けた後、診察室へ呼ばれて「これがあなたの白血球です」と顕微鏡を見せて下さいました。生たまごを割った状態の正常なものもあったけど、中がぐちゃぐちゃなものやハート型、ウインナーがつながったような形がありました。未熟な白血球が多いので大きい病院できちんと検査したほうがよいとの事でした。
 次の病院へ行くまでの5日間に、図書館や書店へ行き、いろいろな医学書を読みました。どの本を見ても、あの時顕微鏡で見た白血球の型は「白血病」なのです。
 慢性なのか急性なのか詳しい事は判断できませんでしたが、私の病気は白血病に違いないと確信しながらも、もしかしたら違うかもしれない、いや違っていて欲しいと願いつつ、平成9年1月、産業医科大学病院へ受診しました。
 産業医大での初診の日、体調はいままでと変わりなし、診察室へ呼ばれて、「兄弟は何人?」とか「その兄弟は、今なにをしているの?」とかの質問だけで私の体調なんて何も聞かれませんでした。2回目の受診では、耳と腕からの採血と胸部からの骨髄検査を受けました。次回は主人と一緒にくるように言われて帰りました。
  兄弟の事を聞く、骨髄検査を受ける。そして、あの白血球の型、今までの状況から判断して、白血病らしいと主人に話しましたが信じられない様子でした。
 3回目の受診の時は、主人と一緒に病院へいきました。行く途中の社内では、主人の方が緊張して、落ち着きのないのを感じました。受付を済ませてから、待ち時間に食事をしましたが、どうもまずく感じました。
 私の検査中に医師から説明を聞いた主人の口から慢性骨髄性白血病である事を知らされました。
 医師から、本人への告知はどうしたらいいか質問されて「本人のほうがよくわかっているようなので告知します」と答えたそうです。簡単に言われたくない病名ですので少しは悩んで欲しいと思いました。
 やっぱりそうだったんだと、病名は冷静に聞くことができました。
 「そしてそれから」っと言いにくそうで口の重たい主人にいろいろ質問しました。
 自分のことなのに、なぜきちんと教えてもらえないのか、はっきりとした答えが聞けない事にもどかしさを感じました。
 主人が最後まで言えずにいた言葉は、骨髄移植をしなければ3年から5年で急性転換してしまい、そうなったら治療法がなくどうしょうもない、という事でした。どの医学書にもそう書いてありました。
 あの事が私の事なのか、「3年から5年で・・・」この事は自分の事だと受け入れる事ができず、その夜は主人に手当たりしだいに、あらゆるものを投げつけて泣きました。
 どうしても知りたくて無理に聞き出した言葉だったのに、「なぜそんなにきつい言葉を簡単に使うの」と言い、あまりにあばれる私の気持ちをどう静めたらよいのかわからない主人は、だまって座っていました。
 私の両親に、病気の事をどう伝えようか悩みました。この頃、どうせ主人は私の気持ちをわかってくれないと思い込んでいましたので、相談もせず一人で実家へ行き病気の事を説明しました。
 患者本人の口から家族へ知らせるという事は、あまりない事ではないでしょうか。
 70歳近い両親に心配かけないよう笑顔で病名を告げ、「今は医学が進歩しているから、いい薬があるらしいよ。心配せんでねっ」と精一杯明るくふるまって帰りました。
 しばらく通院しているうちに、診察の待ち時間に、おとうさんに付き添ってきている娘さんと親しくなりました。
 本人が診察室へ入っている間に娘さんとお話しして、年齢的にも体力的にも移植が望めず、延命治療しか行えないので、告知していない事をうかがいました。
 家族みんなで病名をかくす事で患者を安心させている事がうらやましくてたまりませんでした。しかし娘さんは、本当にこれでいいのかと思う事があると言っていました。
 それから数日間は、私はわがままな患者になっていました。
 「すべてを告知してしまって、あなたは楽になったやろうね、どうせ私の気持ちなんかわからんやろー。病人の家族はもっと患者にやさしくするものよ」なんて、うらやましさからの自分のいらだちをぶつけて言うのですが、主人はとにかく黙って受け止めてくれていました。たまっていればいるで、益々いらいらしていました。
 この優しさに気付き感謝できるようになるまでには、しばらくの月日がかかりました。 病気のこわい事ばかりを知ってしまい、告知された事がいやでした。
 別の病気だと言って欲しかったと思った事もありましたが、長く治療を続けていれば、いつかはわかってくるだろうし、告知してもいなくても、家族みんなで病気と闘っているのです。
 私の場合は、これで良かったと思えるようになりました。

「告知されて(2)」
 「え〜っ、骨髄液って血液なの?」(注)「脊髄と骨髄の違いは?」「登録は病院で、麻酔してするんでしょう?」と,質問されて、発病前の自分もそうだったと思い出しました。脊髄の中にある骨髄という一部分を切り取って患者に提供するものだと思っていました。きちんとした知識を知るきっかけは、自分自身の発病でした。まだまだ多くの方々が、以前の私のように勘違いしているのではないでしょうか。質問していた知人にも、病気のことや骨髄バンクのことをきちんと理解してもらいたかったので、私のわかる範囲の事を説明しました。今までも何人かに質問されて、同じように説明したら、どの人も「へぇ〜骨髄液は血液やったんやね。(注1)知らんやった〜」と言ってくれていたので、今回もその返事を想像していたら、「百円貸してと言われたらすぐに貸せるけど、骨髄を登録してと言われても無理よ」と言われました。その話のなかで「登録して下さい」とは言っていないのですが、患者の私がバンクの事を口にしただけでも、登録を強要しているように聞こえたのでしょうね。私がバンクの活動をする事は、友人を無くす事なのかとショックでした。その事を親友の浩美さんに話していたら、「次の日曜日に予約したから行ってくるね」と言われ、何の事だかすぐにはわかりませんでしたが、カレンダ−に〈血液センタ−・11時〉と書いてありました。ドナ−登録に行ってくれるのです。感謝の気持ちを言葉にあらわす事ができませんでした。又、別の友人からも「この前、行ってきたよ」と、登録してくれた事を聞きました。バンクから何も連絡が無いので、私とは適合しなかったのでしょうね、残念ですが・・・。でも少しずつ登録者が増えています。病気やバンクの事を知ってもらうきっかけを作ることは、必要なのだと思いました。
 患者が、検査のために少量採取する骨髄検査の時でさえ痛みがありますので、提供される方はどれほどたいへんか、わかっているつもりです。何回もの検査や話し合い、そして入院しての提供というご苦労を思うと、すべてのドナ−さんと、ご理解していただいた家族の皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。
 発病して、もうすぐ4年になりますが、骨髄の適合する方は、まだ見つかりません。一部不一致の方は、数名さがしてもらいましたが、主治医の話だと移植後の生存率は4割くらいだそうです。自分が生存の4割の中に入れると思えればいいのですが、どうしてもそうは思えず、とても今すぐの移植は考えられません。セカンドオピニオンを受けたくて他院へも行きましたが、主治医の話と一緒で、「完全一致なら今すぐ移植をすすめるが、一部不一致だとリスクが大きすぎる」という事でしたので、もう少し、完全一致の方を待つことにしました。
 病気がわかり入院が決まったときに、小学4年生だった娘に、私がいなくても生きていけるようにしなければならない、この子が大人になるまで待っている時間は無いと思い、遊びたいばかりの子どもにはかわいそうでしたが、以前にも増してきびしく家事を教えました。その成果かどうかわかりませんが、中学2年になった娘は、めんどうな裏ごしをしたり、パイ生地を作ったりして、料理やお菓子作りがとても上手です。「どこの家にも、小びとのくつ屋さんみたいに小びとさんがいて、ブラウスのボタン付けやアイロンかけは、テ−ブルの上に置いとくと、朝になったらきれいに仕上がっているらしいけど、我が家には小びとさん、おらんもんね」と言いながら自分でアイロンをかけたり、体操服のゼッケンを縫ったりしています。最近は小学3年の息子も茶碗を洗ってくれるようになりました。私はバレ−やバトミントンをして、いつでも笑顔で、快適な患者生活を送ることができています。このまま急性転化の時が来ないように願っていますが、骨髄の適合する方が見つかることも願っています。

注:骨髄液は血液ではなく、血液を作る元になる細胞(造血幹細胞)が含まれた液です。しかし、骨髄移植のために採取された骨髄液には血液が半分ほど含まれています。

告知されて(3)」〜ボランティア活動へ〜 
 11月3日、4日に産業医科大学の医生祭があり、その中で毎年恒例になっている骨髄バンクチャリティ−コンサ−トと昨年度から始まった集団登録説明会がありました。今年は、エンジェリックシャウトの皆様によるゴスペルコンサ−トでした。
 3日は、開演前からかなりの列ができ、1000人ほどのお客様でとても盛況でした。私はコンサ−トの途中で、そのたくさんの方々の前で、患者の立場から骨髄バンク登録へのお願いをさせていただきました。「骨髄提供は、骨を切り取って提供するものではない」「患者にいきるチャンスを与えて下さい」など、話す内容をメモに書き、それを見て話すので、たいした事ないかなと思っていましたが、いざ話し始めると棒読みで、すっかりあがっていました。終わった後たくさんの方々からの拍手を聞き、しばらく震えがとまりませんでした。コンサ−ト中の盛り上がりはもちろんでしたが、フィナ−レでは客席からも舞台へ上がって行き、会場全員が一つになり、とてもすてきなコンサ−トでした。
 コンサ−トが終わって帰るときに、バンクの登録の冊子「チャンス」を下さいと言ってくれる方、4日の集団登録には参加できないけど、献血ル−ムで登録してくれると言ってた方、本を買っていただいた方、寄付を下さった方、ほんとにありがたい方々ばかりでした。
 4日は、午後1時から集団登録説明がありました。開始とともに産業医大の学生さんが数名登録してくれました。20代の女性二人が、登録会場には足を運んできてくれたけど「エッ〜注射針をさすの?痛そう〜」「説明ビデオを見るのめんどくさい」と言い、登録については、何も知らない様子でした。血液センタ−の方の説明で、一人の患者が元気になるかもしれない事を理解してもらえたようで、説明ビデオを見てもらい10ccの採血も受けて登録に協力していただきました。
 準備中の10月21日には産業医大の最寄りの駅、JR折尾駅前で、医大の学生さん達と一緒にコンサ−トのチラシ配りをしました。この日は、医生祭の他に、他校の学園祭、あしながおじさん募金、夜間中学設立の4つのグル−プがゆずり合い、チラシを配りました。「昨年も行きました。今年も行きます」と言って受け取ってくれる方、全く知らんふりする方とさまざまでしたが、2時間ほどで予定していたチラシを配り終えました。私と中学2年の娘は、足が痛くなり疲れましたが、小学3年の息子は「チラシ配りはおもしろかったよ」と言っていました。
 このコンサ−トと登録会については、何ヶ月も前から準備していただいて、実行委員の花岡さんをはじめ、学生さんたちにはたいへんお世話になりました。
 4日の登録会で登録してくれた方とお手伝いの方のために、娘がスイ−トポテトを作ってくれました。さつまいもの裏ごしには時間もかかり力もいるので、主人も手伝ってくれました。私もチ−ズケ−キを焼いていったのですが、娘の作ったスイ−トポテトのほうが評判が良かったようです。
 多くの方々のご協力のおかげで18名のバンク登録がありました。そのおかげで数名の患者の健康を取り戻すことができます。その患者の一人が、私であることを願って、3日間のお手伝いをさせていただきました。
 ご協力していただいた皆様、ありがとうございました。

「告知されて(4)」 〜ボランティア活動へ〜
 皆さんの所にマロ−はお伺いしましたか。バンクだよりの10月号と12月号でも紹介しましたが、白血病についてや骨髄バンクについて、多くの方々にご理解していただくために、かわいい笑顔のマロ−達が各地でがんばっています。
 このマロ−は、多くのボランティアによる手作りです。裁縫の苦手な私もマロ−作りに参加しています。幼い頃、私の両親は自宅で洋服を作る仕事を職業としていましたので、直進用、ジグザグ用、ロック専用と、ミシンは何台もありましたが、私が使うと調子が悪くなると言われ、さわらせてもらえませんでした。そのため、家庭科の授業でパジャマやスカ−トを作りましたが、それは全部母にしてもらっていました。提出した作品はプロが縫った物ですから、いつも満点をもらい得した気でいましたし、縫い物は母にしてもらえばいいと思っていましたので、大人になって雑巾ぐらいしか縫えない事をはずかしく感じていました。
  友人にマロ−作りをお願いしたら、2月に出産をひかえている幸代さんは、「臍帯血を提供したい」とかかりつけの産婦人科で申し出てくれたそうですが、まだ臍帯血の保存をする準備ができていないので無理だと知り、「妊娠中なので骨髄提供はできないし、臍帯血提供もだめなので、今の私にはマロ−を作る事しかできない」と言ってくれ、千鶴さんも「お手伝いさせて下さい」と言ってくれ、親友の浩美さんも「縫い物は、苦手なんだけど」と言いながらも快く手伝ってくれました。
 みんなのありがたい気持ちのこもったマロ−作りが始まりました。私は何も出来ませんので、少しずつ教えてもらいながら縫いました。そばで遊んでいた子供たちも綿づめを手伝ってくれました。休息のお茶とお菓子の時間のほうが長いのですが、少しずつ出来上がったら、どのマロ−もそれぞれに表情が違い、みんなかわいいのです。楽しくマロ−作りをしています。
 娘の通っている遠賀中学校の家庭科部の先生も、クラブ活動でのマロ−作りを快く引き受けて下さり、今生徒さんたちも作ってくれています。娘もマフラ−をまいたり、カバンを持たせたりして小道具までかわいく作っています。マロ−が皆様のお宅におじゃました時には、かわいがって下さい。
 12月3日(日)、天神での骨髄バンクのチラシ配りに、息子と一緒に参加しました。10名のボランティアの方たちとアンディ・フグさんの写真のチラシを配り、バンク登録の呼びかけと寄付のお願いをしました。チラシにアンディ・フグさんの写真が写っていたので若い方たちの関心はひいたようでした。息子は募金箱を持ち「協力お願いします」と大きな声を出していました。いつも落ち着かず少しもじっとしていられない息子が私のために手伝ってくれるうれしさで涙が出そうでしたので、息子の姿を見ないようにして、声も聞こえないよう離れた所でチラシを配りましたが「お願いします。ありがとうございました!」の声が段々大きくなって、聞こえていました。病気について、骨髄についても何もわかっていない息子ですが、骨髄バンクの活動は楽しいようで、よく手伝ってくれています。
 骨髄バンクの協力には、骨髄提供だけではないからと、いろんな形で私を応援してくれる方々のありがたさを感じています。

「告知されて(5)」〜患者交流会に参加して〜
 1月末に福岡で初めて血液疾患患者の会「フェニックスクラブ」の交流会がありました。その交流会に、私と同じ病気を克服して骨髄バンクをたちあげた、私の生きる目標としている大谷貴子さんが参加される事を聞き、会がどんなものかは知りませんでしたが「そこに行けば大谷さんにお会いできる」それだけが目的で参加しました。しかし残念なことに大谷さんと一緒にいられたのは1時間ほどで、直接お話ししたのはほんの数分でした。大谷さんが帰られてからは、患者どうしが悩みをうちあけて何が楽しいんだろうと思いながらも交流会に参加していましたが、その思いは全く違い、とにかく楽しい会でした。医師の言葉は一番信用していますが、その意見は医師としての体験からや今までのデ−タ上のものがほとんどです。医師はむやみに安心だけさせるような言葉は使いません。「骨髄移植は最悪の結果も考えられる」とか「1年以内に骨髄移植をしなければ体力的に無理になる」など厳しい事を言うので、不安になります。告知された時のショックも、副作用の頭痛のつらさ、吐き気のきつさ、急性転化する事の不安、適合ドナ−の無い不安は、経験してきた患者にはわかっていますし、つらさを乗り越えてきています。多くを語らなくても気持ちをわかってくれて、「ひとりじゃないのよ」と言われただけで安心するものです。不安だらけの患者はいつでも安心を求めています。それが家族だったり友だちだったりするのですが、もうひとつの安心を今回のフェニックスクラブで見つける事ができました。交流会に参加した患者さんは、お元気で陽気なのです。この会はほんとに患者の会なの?と思いましたが、食事の後でそろって薬を飲んだ時に、本当にみんなが患者である事を確認しました。
 今回、フェニックスクラブ交流会に初めて参加しての気持ちを聞かせて欲しいとNHK福岡放送局、報道番組ディレクタ−の上田和摩さんから連絡があり、気軽に了承しましたがその質問内容は、フェニックスクラブに対するものではなく、今まで誰もがそっとしておいてくれていた病気のつらい部分にふれ、なぜ?どうして?の連続でした。「病気とどのように向き合っていますか?」の質問には、答えられませんでした。白血球や血小板の少ない時には、食べ物やけがなど充分注意しながら生活をしています。「病気」は忘れて、というよりは、できるだけ避けて過ごして来ました。その質問を考えていたら、私は大変な病気なんだと自分自身に言い聞かせている様でつらくなりました。今回の質問は「フェニックスクラブへ参加した気持ち」だったのでしょうと、質問が辛いことを話し、病気についてもっと理解してから取材しなおしてほしいとお願いしました。その後上田さんは私の主治医へ電話したり、病気に関する本を読んだり、ビデオを見てくれたりなど、短い時間にかなり勉強して下さいましたので、この上田さんに私の気持ちをもっと聞いてほしいと思うようになりました。当初の話では、撮影カメラが入るかどうかわからないという事だったので、安心してしゃべっていたのですが、撮影は、フェニックスクラブの交流会の時と、我が家の食事中にもありました。家中、おおさわぎです。年末にもしなかったような所まで掃除して、カメラを待ちました。夕食のメニュ−はカツカレ−でした。ふだんはのせない「カツ」をのせて豪華メニュ−にしたのですが、放送にその「カツ」はよく映っていませんでした。大きなカメラの前での食事は、みんな緊張でだまって食べましたが、何とか楽しそうな家庭風景を放送してもらいました。ずいぶん長い時間、話を聞いてもらい、撮影も2日あり、その中から私の思いを3分半にまとめて放送していただいた裏には、たいへんなご苦労があったと思います。大勢の方々が多くの時間をかけて製作して下さった、私の3分半の宝物ができました。上田さんからの質問で「フェニックスクラブ交流会へ参加してどうでしたか?」と聞かれ、「楽しかった」と答えたら、「それはなぜ、どうして」と聞かれましたが、この楽しさはつらさを経験した患者にしかわからない楽しさです。言葉にはできません。
 3分半の宝物と同時に大切な仲間もできました。

「告知されて(6)」〜今を大切に〜
 入院中の一番つらかったときに、叔母の一言で、「今を大切に生きる」という事を教わりました。
 医師2名から主人と私に、今後の治療方法と骨髄移植について説明がありました。HLA適合の可能性が高い兄とは、型の違うことを知り、「骨髄移植後の生存率は6割から7割ぐらいです」と説明があり、「申し込みますか」と骨髄バンクの患者登録申込書をみせられた時、その紙がとても恐ろしいものに見えました。いろんな説明があったのですが、「3割から4割の方は生きられない」このことだけが強く印象に残り、頭もからだもパニックになって、過呼吸を起こしてしまいました。安静をとるため、その場の話し合いは、きちんと返事をしないまま中止になりました。骨髄移植を受ければ、病気は必ず治ると思っていましたので、認識の甘さと病気の怖さで不安になり、病院の公衆電話から叔母へ電話しました。兄とは型が違うこと、移植が完全な治療ではないことを話し「私はもう生きられないみたい」と不安を訴えていたら、叔母は「よく考えてごらん、人間はみんな死ぬのよ」と穏やかに言いました。「もうあなたは死ぬしかないでしょう」そう言われたような気がして、私はこんなことを言ってもらうために電話したのではない、電話しなければ良かったと思い、受話器を置いた瞬間から涙があふれ、しばらくは病室に戻れませんでした。いつも穏やかで上品な叔母ですので、尊敬しています。その叔母の言葉を理解するのに時間はかかりましたが、私なりに理解できるようになり「生きている今を大切にしなければいけない」と思えるようになったときから、私の生きることに関しての気持ちは少しずつ変わってきました。
 4年前小学6年生だった娘は、1年間、鹿児島県の甑島へ漁村留学をしていました。インタ−フェロンの副作用で動けないときによく手伝いをしてくれていたので、1年間も娘を手放すことは、私にとってとても不安でした。本人は強く希望していたのですが、私の母や知人が「お母さんが大変なときに、あなたが手伝わないといけないので、そんなことはさせられない」と言い、その言葉に娘が納得しているのを見たときに、私の病気のせいで娘の自由を奪ってしまう事がかわいそうになり、私はどうしても行かせてあげたくなりました。娘の手伝いのない1年間は、きつい生活になるだろうけど、「今なら出来る」そう思って見送りました。私は、1年間も娘を手放す不安と寂しさだらけでしたが、娘は大きな希望を持って出かけました。一足の靴が無いだけで、玄関が広く感じたり、一人いなことで部屋も広く感じ、娘の存在の大きさを知りました。
 何でもお姉ちゃんに頼っていた息子も、その年1年生になりました。今まで娘がしてくれていた風呂掃除を引き受けて、してくれました。毎日きちんと掃除して沸かしてくれていたので、わかっていると思い、ある日「風呂掃除して、沸かしてね」と頼んだら、「え〜掃除して水は入れずに沸かすの?」と不思議そうでした。まだ、1年生です。毎日していることなのに、昨日の水を抜いて掃除して、水を入れてから沸かしてねと一つずつ言わないとわからないのです。この子がもう少し成長するまでは、寝込めないと思い1年間を過ごしました。
 1年経って、娘は心も体も成長して帰って来ました。発病当時は、少しでも多くのことを教えておかないと私には時間がないと思い、いつも叱ってばかりでしたが、今では大人同士の会話が出来るようになりました。
 お世話になっていた甑島には、魚屋さんがありません。膿からとれたばかりの魚を、漁師さんから直接分けてもらうため、各家庭で、魚を調理します。私は、ス−パ−で一番きれいなパックを買うようにしか教えられませんでしたが、甑島で魚のさばき方を教えてもらい、うろこをとったり、内蔵を出したり出来るようになっていました。娘にとってもこの1年は大きな経験だったと思います。
 病気になったことで、きつい時もありますが、病気の私にも出来ることはたくさんあります。そのことを教えてくれた叔母と、私を支えてくれる方々に感謝しながら、今を大切に生きています。

「告知されて(7)」 〜骨髄移植のこと〜
 骨髄移植について真剣に考えなければいけない時期が来てしまったようです。
 「発病して4年から5年で急性転化してしまい、そうなったら治療方法がない」これは、どの医学書にも書いてある事ですし、医師からも説明は受けていましたが、この事は自分にはあてはまらない事で、私はいつまでも慢性期のまま、病気が進行する事はないと思っていました。(症状の進行により、慢性期・移行期というわけかたをしています。)
 今年に入ってからは、血小板が増えすぎて、それを抑えるために薬を増やすと、血小板だけでなく白血球までが減りすぎ、薬を減らせば、又、血小板が増えすぎて、薬の調整が難しくなっていました。
 それでも「私はいつまでも慢性期」という思いでいましたので、この症状は一時的なもので、そのうち治まるだろうと考えていました。
 5月中旬に中学3年の娘の運動会がありました。応援中は楽しく過ごし、体調はなんともなかったのですが、翌日はきつくて、血液検査の結果も悪く、「こんな体調で一日中運動会の応援をしていたの?」と医師はあきれていたようでした。次の週は、小学4年の息子の運動会で、初めのうちは止めていた医師も、私を止めても無駄だと判断したようで「ほんとは行ってほしくないけど、父母競技には参加しないように、そしてこの薬を飲んでおくように」と運動会の応援を黙認してくれました。しかし、前日の夕方から腋の下のリンパ線がはれて、熱も上がってきました。運動会には行かないつもりで、息子に話したら「ぼくは何番目に走るよ」とか「このへんで踊るよ」と説明を始めました。息子の説明している顔を見ていたら私も行きたくなりました。息子を応援する事でしばらく寝込むだろうけど、無理をして出かけました。一日中きつかったのですが、それでも運動会の応援ができた事は満足でした。
 5月末に医師から、移行期の兆候が見られ、悪い細胞が増えだしたので、九大病院へ受診するようにすすめられました。私はいつまでも慢性期のままだと思っていたので、納得できないまま、6月初めに受診しました。
 九大病院で、今までの検査結果を見ながら私が「こんなに減ったのは薬の量が多すぎためで、ここで増えたのは薬を止めたからですよね。移行期なんかじゃないですよね」と確認したら医師は「私も産業医大の先生と同じ考えです。悪い細胞が増えだし、移行期の兆候が見られますので、治療を急ぐ必要があります。それに平行して骨髄移植の準備をすすめましょう」というお返事でした。
 6月中旬、入院して治療を開始しました。病状が進行している事については、受け入れる事ができましたが、骨髄移植については、受け入れる事ができません。治療で症状を回復させて、慢性期に戻してから骨髄移植をするのが、今後の方針です。私にはまだ完全一致のドナーさんがいません。完全一致のドナーさんが見つかるまで移植を受けるつもりはありませんでした。しかし、不安は大きいのですが、一座不一致での移植の準備は始まりました。
 同室で仲良くなった患者さんは、妹さんからの提供で経過はとても順調です。移植22日目の検査で「完全寛解」と診断されました。その患者さんから「移植中はきついけど、移植をおすすめするよ」と言ってもらいました。いくら順調だとはいっても、移植中はかなりつらい思いをしているはずなのに、無菌室での様子をとても楽しい事をしたかのように話してくれました。私もこんなふうになりたい・・・。
 入院病棟の主治医とは、何でも話せて仲良しになれたのですが、移植に対する気持ちを聞かれたら、まだ「はい」と答える事ができず、汗が出てきます。でも、どんなに汗をかいても、移植を納得して受けなければ、先の見通しのない事実も充分わかっています。
 今、私の最大の課題は、移植を拒否しない気持ちになる事です。日々、少しずつ受け入れてきています。

「告知されて(8)」 〜将来のこと…〜
 6月中旬から治療を開始しました。
 下痢、むくみ、吐きけ、皮疹等、予測されていた副作用もたいした苦痛ではなく、薬は効果的に私の体に作用してくれています。骨髄の中に正常な細胞も出てきました。
 7週間入院して症状が安定したので退院しました。退院の日は家族みんなで迎えにきてくれました。帰り道の車の中、後部座席のふたりの子供の何でもない会話がとても楽しく聞こえて、自宅で普通の生活が出来る事に幸せを感じました。
 8月11日(土)、門司でGLAYのコンサートがあり、開演前にライオンズ日本財団主催の募金活動をしました。子供たちは先に出かけ、私と主人は遅れて参加しました。娘は、たくさんの人たちに見えるようにと、頭の上まで高くあげて募金のお願いのポスターを持っていました。息子は「骨髄バンクのご協力をお願いしま〜す」と大きな声で呼びかけをしていました。バンクの活動をいやがらずに参加してくれるふたりの子供の成長をもっと見ていたいので、骨髄移植を受ける決心をしました。
 発病して4年半たっても完全一致のドナーさんが見つからないので、移植はしないつもりでした。だから「今」しかないという思いが強く、今、私は何をしないといけないかという事ばかりを考えていました。移植で健康を取り戻した患者さんはたくさんいますが、元気になれずに見送った患者さんも少なくありません。入院中、移植に対して臆病になっている私に、医師から、「将来を考えてはどうですか」とお話がありました。「将来」、考えた事のない言葉でした。5年後、10年後の将来を望むなら、骨髄移植は避けて通れない道です。
 私の気持ちは、少しずつその道を進んでいますが、ドナーさんのコーディネートは思うように進みません。
 少しでも良い状態で骨髄移植を受けたいと思っています。

「告知されて(9)」 〜移植への決心…〜
  HLA完全一致のドナーさんを5年間待ちましたが、身体のほうが待てなくなって、一座不一致で骨髄移植を受ける事にしました。
 移植はとても危険だし、まして一座不一致は生存の見込みが無いと思っていましたので、コーディネートが進むにつれて不安になり、それでも思うように進まない時は、長くは生きられないかもしれないと、それも不安でした。
 最初のドナー候補とは、遺伝子レベルで私とは合わず、二人目は順調に進んでいましたが、何かの理由でコーディネートが中止になり、三人目のドナーさんから、最終同意をいただく事が出来て、移植予定日が決まりました。移植は完全なものではない、移植をしたために余生が短くなる場合もある。でもこのままでは治療法もなく確実に体力はなくなってしまう。しかし移植をしたら余生が・・・、でもこのままでは・・・・。頭の中で、いつまでも迷いは続いていました。
 4月に宮崎のバンク講演会で知り合ったドナー経験者と親しくなり、お話をうかがいました。その方は骨髄提供が決まってからは、信号待ちをしていても、今までは横断歩道の一番前で待っていたけど、今ここで事故にあったら患者さんがたいへんな事になると思い、2,3歩さがって信号を待ったり、かぜをひかないようにだとか、外出はなるべく控えて、ご自身の健康管理にはとても気を使い採取日を待っていたそうです。財団から送られてくる三次検査のお知らせの書類もきちんと保存してあって、それを全部見せてもらいました。私のドナーさんもきっと同じような思いですごされていると思うと、感謝でいっぱいです。
 骨髄バンクの事を知り活動を始めたのは、この病気になった事がきっかけで、発病しなくて健康なままの私だったら、誰のためかわからないのに、血液検査、健康診断、最終同意確認、自己血貯血のために4〜5回病院へ足を運び、入院して提供をする事が出来ただろうかと考えると、ドナーさんのお気持ちがありがたくて、迷っている事も申し訳なく思い不安は少なくなりました。
 移植日が決まり、入院して準備が始まりました。白血病の今の状態を調べる骨髄検査は何度しても、あの痛みに慣れる事はありません。麻酔してネジのようになった針を腸骨か胸骨に刺して、骨髄液を採取します。状態が良いか悪いかは、この検査をして診断を受けます。どんなにベテランの医師が採取しても、骨髄液がひかれている痛みは変わりませんが、針が骨に入る時の痛みは、医師の経験により違うようです。今回も入院してすぐに検査がありました。針が入る時に強い痛みがあったので、何度も「そこは痛い」と言って、痛みの少ない場所から採取してもらいました。採取中の痛みは、訴えてもやわらぐ事はないので声をださずに我慢していたら、「採取中は痛くなかったみたいね」と看護婦さんに聞かれました。「とんでもない!痛みは大げさに表現したほうがいいみたいね」と言いましたが、患者と同じ痛みを感じる事はなくても、痛みや辛さは理解していただきたいです。
 病棟の主治医は、研修医の時に研修医どうしで骨髄採取の練習をした事があるそうです。若い医師にも採取の練習をして痛みを知るように指導しているようですが、実行する医師は少ないようです。
 前回の50日間の入院の時は、移植を勧める主治医と話をするだけで、脈が早くなり、汗が出ていたのですが、移植の不安を少し解消できたので、汗をかかずに話をする事ができるようになりました。
 前回退院して家に帰ってから、「お母さんが退院したらうれしい?」と息子に聞いたら「うん」と言ってくれました。「お母さんは寝ころんでばかりで、どこにも遊びに連れて行けないよ、それもうれしい?」と聞いたらもう一度「うん」と言ってくれました。その返事が嬉しくて、今、生きている事を実感しました。
 これから、移植前の前処置が始まり、外部から隔離された無菌室へ入ります。どれだけの苦痛なのか想像もつきませんが、患者の痛みのわかる主治医を信頼して、骨髄移植に臨みます。

「告知されて(10)」〜命の贈り物〜
 ドナーさんから命の贈り物をいただきました。
 30日間の無菌室での生活が終わり、6人部屋へ移動になりました。吐き気、下痢、発熱、胃痛、湿疹などがありました。吐き気は今でも時々ありますが、食べれるだけ食べて、あとは吐かないように我慢しています。
 IVH(右胸の鎖骨の下を走っている鎖骨下静脈という太い静脈に管を留置する。一度IVHを挿入すると数ヶ月間は、点滴薬がそれから入るので、点滴のたびに針を刺されなくてすみます)挿入の時、これで移植が始まってしまう。これしか生きられる道はない。でも移植をしたために余生がなくなるかもしれない。今「やめて」と言えば、移植は中止になるかもしれない。でもそんなことは言えるはずない。いろんな思いと迷いと不安で、移植準備は始まりました。
 無菌室入室前の最後の入浴の時、薬の影響で、廊下を歩いたらふらふらしたのですが、、この後はいつ入浴できるかわからないので、抜けてしまう髪の毛もきちんとシャンプーをして、少し無理をして入浴をすませました。
 今、思い出して一番つらかったのは、痛みや吐き気や発熱ではなくて、無菌室入室の時でした。私が泣けば相手が心配すると思うと、今まで両親や家族の前でも友だちの前でも「病気がつらい」と泣いた事はなかったのですが、入室の時に「無菌室に入りたくない」と大声で泣きました。不安でいっぱいで泣きながらの入室でした。入室してからも泣いていたら「抗がん剤投与で骨髄の破壊が始まっているのでもうあと戻りはできません」と主治医から叱られました。「自分の為に治療しなければいけません」と言われ、頭の中で全て理解していますが、移植、一座不一致、外部と遮断された無菌室、今から始まる恐怖だけしかありませんでした。
 移植直前の治療の説明があった時に「6時間おきに4日間、16個の内服の抗がん剤は、移植には大切な薬なので、吐き気がくるけど吐いたら又飲みなおし〈おかわり〉をしなければいけない、一度吐けば吐き癖がつくので、なるべく我慢してほしい」と説明がありました。内服で2日目の昼頃、7回目の薬の後から吐き気が強くなりました。しばらくは強い吐き気は続きましたが「吐き癖をつけない」「吐くのもきついのに薬の飲みなおしはしたくない」そう思って、胸をさすったり梅干しを食べたり、あめ玉をなめたりして、冷や汗をかきながら、我慢しました。16回目最後の薬は、夜中1時、主治医が持って来て下さいました。飲んだ後に「明日の朝になったら吐いてもいいよね」と確認しました。
 翌日からの抗がん剤は、IVHからの点滴にかわるので「おかわり」の心配はありません。その後は我慢せず4回吐きました。無菌室30日間で吐いた回数4回、これはちょっと自慢です。病院給食は生もの禁止食です。食べられるだけ食べて、あとは胸をさすっています。生禁食とは、牛乳は缶牛乳のみ、乳製品禁止、生もの禁止、果物は缶詰のみ、ラップかけ等の制限はありますが、朝は食パンと加熱した野菜、缶詰の果物、昼と夜は、ご飯と汁物、おかずも肉も魚もついていました。それがすべての食器にラップがくるんでありました。
 移植4日前、大騒ぎして無菌室入室、その直後から薬の影響で、痙攣が始まりました。痙攣防止の薬で眠くなるので、2日間はほとんど寝ていました。
 移植日、午後2時半ごろにドナーさんからの骨髄液が届き準備がはじまりました。アレルギーを抑える薬も同時に入ったので、骨髄液が入るときも寝ていました。夜7時頃、500ccの骨髄液が、私の身体の中に内ってしまいました。「最後の一滴まで」とチューブに細工して残らず入れてくれた主治医にも感激でした。
 1日10数回の下痢が続き、発熱があり、解熱剤を飲めば熱は下がるのですが、下がったらすぐに寒気がして、又高熱。口内炎で口の中も痛くて、何も食べずに解熱剤を飲むので胃が痛くなり、ようやく治まったら湿疹が出来て、今でも続く吐き気。次々といろんな苦痛がありましたが、どれも耐えられる苦痛でした。
 主治医も毎日、数回、様子を見に来てくれます。土日祝も毎日です。朝から夜中までいてくれるので安心でした。ご家庭もあるのに「プライベートの時間はいつなの?」と余計な心配をしたりしています。医療ミスばかりがテレビや新聞で大きく報道され、病院不振になりがちですが、こんなに患者の為の医療をしているお医者さん達がたくさんいらっしゃいます。昼も夜も、休みもなく、私の血液データと体調を見て、細かい薬の調整をしてくれて主治医が頑張ってくれました。「私は、耐える事と食べる事だけ、あとは先生が頑張ってね」と失礼な事ばかり言いました。主治医のおかげで、こんなに早く楽になれたと感謝しています。
 これから始まるGVHD(移植片対宿主病→ドナーさんの骨髄液が私の体内で、これは自分の身体じゃないと判断して臓器を攻撃してくる)は何が起こるかわからないと言われていますが、今の私には不安はありません。身体の痛みと心の不安を全部主治医に預けています。
 娘の高校受験の時期の入院で、充分な学習の環境を与えてあげられなかったけど、受験の日の朝は、家にいて受験生の母として見送りたいと思っています。

「告知されて(11)」 〜移植から退院へ〜
 ドナーさんから命の贈り物をいただきました。
 移植1ヶ月後から、時々胸が痛くなりました。胸部レントゲン、心電図、胸部エコー等、調べても原因がわからなくて、「安静にして様子を見ましょう」と言うことでした。トイレにも看護婦さんに車椅子で連れて行ってもらうように指示され、数回はそうしたのですが、「トイレだけは、一人で行かせて欲しい」とお願いして、トイレ歩行だけは許可してもらいました。それからもう一つ「朝、食堂までパンを焼きに行きたい」とお願いして、1日1回食堂で、パンが焼ける間の数分間、患者さんとお話するのが楽しみでしたが、心電図の脈拍はいつも100を越えていました。少しの動きで動悸を感じてきついのですが、朝、食堂にパンを焼きに行くことは楽しみでした。安静を守っていたというよりは、動くときつかったので、ほとんどベッドに横になっていました。「平気でうろうろしていますよね」と看護婦さんに言われたときには目が点で声も出ませんでした。
 もう一つ納得できなかったことが、痛み止めを朝夕飲み続けるように指示されたことでした。それまで約2週間、胸の痛みを訴えても「様子を見ましょう」と言われ痛み止めを飲んだことはなかったので、痛み止めを飲み続ける事に抵抗がありましたが、痛みを抑えて心臓を保護する目的で飲みましょうと説明を聞いて、飲み始めました。飲み始めて1週間ほどたった頃からトイレから出てもすぐに行きたくなる残尿感を感じ始めました。このときの尿検査では尿潜血が(2+)、痛みはなかったので治療もなしで新年を病院で迎えました。病院食のお雑煮とお節料理をいただきました。大好きな黒豆は4粒しかなかったので、実家から持って来てもらいました。
 年明けから残尿感が強くなり、尿に血液が混ざるようになりました。それでも痛みが無かったので、治療はまだありませんでした。その日の午後から、腎機能に影響があるので痛み止めの中止の指示がありました。その晩は、下腹部と尿道の痛みで、1時間以上トイレから立ち上がる事ができず、出血性膀胱炎の診断を受け、トイレ付きの個室に移動になりました。治療は、大量の輸液と、1日1リットル以上水分を飲んで、膀胱を洗い流す事でした。院内行動には制限がありましたが、ここでも朝パンを焼きに行くことは許可していただきました。点滴で利尿剤が入ってくると、しばらくは20分間隔でトイレに行きたくなります。それでも尿の出ている間は痛みはないのですが残尿感があり、尿の出ないときは下腹部と尿道の痛みでトイレから立ち上がる事が出来ません。点滴での痛み止めは、身体がしびれたり吐き気があって合わないので、飲み続けたくなかった飲み薬の痛み止めを、再び飲み続けることになりました。なるべく我慢していたのですが、痛みには勝てずに、ずいぶん痛み止めのお世話になりました。
 このころから、食欲が無く、吐き気も出てきて無菌室にいた時よりもつらい時間が続きました。それでも娘の受験の日は、自宅から見送りたかったので、かなり無理をしましたが、半日だけの外泊許可をいただいて「受験生の母」ができました。朝、娘を見送った後すぐに病院へ戻らなければいけなかったけど、満足でした。
 1ヶ月ほどで出血性膀胱炎の症状もとれ、退院の話しもでてきて、6人部屋へ移動になりました。退院できると一人で浮かれていたときに、〈残念ですが〉とメールが入ってきました。名古屋の病院に入院していて、同じ病気で同じような経過で2日違いで移植した、患者の会の仲間が天国へ逝ってしまいました。そのメールはご主人からのもので「妻のぶんまで生きてください」と記されてありました。病院でも、仲良くなった患者さんを見送りました。急に具合が悪くなり、ご主人から様子を伺っていたのですが、退院の日の朝「楽にしてあげたいので機械をはずして連れて帰ります。生きている間に会いませんか」とご主人が私のベッドまで来て下さいました。主治医に無理を言って、彼女に会わせてもらいました。信じたくない悲しい現実でした。彼女のご主人にも「妻のぶんまで生きてください」と言っていただきました。ありがたい言葉です。今までにも何人にもそう言われて、時々、重すぎて押しつぶされそうになりますが、たくさんの仲間に背中を押してもらって、移植から100日を越えて退院することができました。

「告知されて(12)」 〜卒業式〜
 生きるための目標だった、中学の娘の卒業式に参加しました。
 5年前、告知された時に「発病から4〜5年で急性転化してしまい、治療方法がなくなる」と説明を受けていたので、娘の卒業式に参加することはできないかもしれないと思っていました。発熱と胸痛で再入院し、退院したばかりだったので、卒業式式典には参加できませんでしたが、「祝 卒業」の看板の横で、娘と一緒に写真を撮りました。
 薬で黒くなった肌、ムーンフェイス、カツラでの写真は卒業式参加という大きな目標を達成できた宝物です。
 学校で、「中学卒業にあたり、親への感謝の気持ちをレタックスに書いて送りましょう」という授業時間があったようで、郵便局から届いた娘からのレタックスは、上に小さく「母よ」と書き、紙の中央に大きく「生きろ」と書いてありました(これを見たときの感動は、言葉になりません)。写真ともう一つ、宝物が出来ました。
 退院してからの生活は、時々おそってくる吐き気や胸痛でほとんど家の中でごろごろしています。寝ころんでいる私のそばにくっついてくる息子は、頭痛の時はアイス枕を持ってきてくれ、吐き気のときはゴミ箱をそばに用意してくれます。
 以前のように、思うように身体が動きませんが、自宅で生活出来る事に、幸せを感じています。

「告知されて(13)」〜ドナーさんへ〜
 ドナーさんに1回目の手紙を書きました。今はまだ、ドナーさんと患者は会うことは認められていませんが、移植から1年以内で2回まで、手紙を書き、届けてもらうことが出来ます。お互いの手紙は財団に送り、住所や名前、移植病院等の個人を特定するような内容が書かれていないかのチェックを受けて相手に届けられます。言葉に出来ない思いのすべてを文章にすることは出来ませんでしたが、提供していただいた骨髄液が私の身体の中で有効に働いてくれていることを報告しました。
 ドナーさんが決まるまでに数人に3次検査を受けていただきました。遺伝子レベルで合わないので止めた方がいいと、こちらからお断りした方もいますが、コーディネートが進んでいたのに、お断りされ、財団からは3次検査の請求書だけが送られてきて、生きる望みが見えていたのに、断るのなら登録しないでほしい、また暗くて長いトンネルに入ってしまったとショックでした。しかし、前回、6月号の湯口さんの投稿を読んで、つらいのは私だけではなく、お断りしなければならなかったドナー候補の方も同じだった事がわかりました。
 もしかしたらそのドナー候補の方は、私が移植を受けることが出来たことも知らされずに、ずっとつらい思いをしているのかもしれないとも思うと、私が元気でいることを伝えることができればいいと思っています。
 春休みが終わって新学期に入り、5年生になった息子は、私の外来受診の日の朝は、気分が悪いとぐずぐずするようになり、着替えていたらズボンや靴下をかくして、出かける準備の邪魔をするようになりました。2週間の間で3日も学校を休んでしまい、気になっていましたが運動会の練習が始まると休まなくなりました。
 騎馬戦では上に乗って騎手になったらしく、相手を落としたり落とされたりでひざや顔に擦り傷を作って帰ることもありました。
 日射しにあたると、今まで落ち着いていた症状が悪化するのでよくないと言われているので、「運動会を見に来てくれる?」と何度も聞かれて、きちんと返事をしないままでいました。
 晴天の運動会の日は、娘の作ってくれたお弁当を食べ、途中は車の中で休みながら、観戦をしました。昨年の運動会は、腋のリンパが腫れ、熱もあり、来年は生きていないかもしれないと思っていましたが、また成長した子どもを見ることが出来ました。

「告知されて(14)」〜初盆〜
 一緒に笑い、一緒に泣いて闘ってきた、たくさんの仲間たちの初盆が過ぎました。仲良しだった、さゆみさんの初盆参りをさせていただきました。小学生の女の子を残して逝った彼女は、娘さんにあてた詩を手帳に書いていました。お仏壇に飾られた「いつもあなたを見守っているからね」と書かれているメッセージの文字は震えていました。ただお母さんでいたかっただけの彼女が、どんな思いで書いたのかと思うと、涙で言葉が出ませんでした。同じ病室で過ごした時間は決して楽しいことばかりではなかったはずなのに、笑っている彼女の顔しか思い出せません。
 事故でお亡くなりになった、お世話になった若い研修医の先生の天国への旅立ちの場所では、折れ曲がって撤去されていた街路灯が新設されて、何事もなかったかのような街並みに戻っていますが、それがとても寂しく感じられます。個室にいたときは、消灯時間を過ぎて部屋をノックして「何も用はないけど、おやすみなさい」と言ってくれたり、よく治療に関係のない話をしてくれていて、やっぱり笑顔しか思い出せません。白衣を着て歩いている、似たような後ろ姿を見ると、もしかして、と顔を確認したくなります。
 今年の暑かった夏に、心と体のバランスを崩してしまい、眠れない夜を過ごすことが多くなり、眠れないことがストレスでますます眠れなくなりました。睡眠鎮静剤は飲み続けると依存してしまうのが嫌だったので、処方されても拒んでいたのですが、それを飲むと不安や嫌なことを忘れて眠れるので、処方を催促するようになり、時間を忘れて眠り続けたいと思い始めた頃、天国から何人もの仲間たちが夢に出てくるようになり、心と体のバランスを戻してくれました。今では何を悩んでいたのかもわからないほどで、睡眠鎮静剤が無くても眠れるようになりました。
 16歳になった娘は、初めての献血に行ってくれて、息子もバンクの募金を手伝ってくれて、私のバンク活動は少しずつ再開しています。

「告知されて(15)」 〜MDRTソニー会にて〜
 ソニー生命のMDRTソニー会、秋の研修会にご招待していただいて、北海道で骨髄移植の報告をしてきました。出発前は札幌も福岡も雨が続いていましたが、2泊3日の北海道はお天気にも恵まれました。娘も一緒にご招待して頂いていたのですが、学校行事と重なったため留守番することになりました。移植後は病院から先の遠出をしたことが無く、一人で北海道まで行くのは不安だったので、従姉に付き添いをしてもらい、小学5年の息子には重たい荷物を持ってもらいました。小樽観光をしたときは、歩きすぎて足が上がらなくなりましたが、素敵な思い出をお土産に帰ってきました。
 MDRTソニー会とは、生命保険営業職の業績トップのメンバーで構成された会の事で、昨年の秋の研修会で私がお話させていただき、今年の春は「いのちのあさがお」のこうすけくんのお母さんのお話があり、今回が3回目で骨髄バンクの事を、ソニー生命が全社で応援して下さっています。また、昨年の、大谷貴子さんとドナー体験者の男性と私や丹後さんの話を聞いて、沢山の社員の方がバンク登録をして下さいました。
 昨年の研修会は、福岡シーホークで行われ、一患者ということで参加しました。横浜営業所の深町さんと最初の打ち合わせの時は、「私のドナーさんを探して下さい」とお願いする予定でしたが、、私の状態が悪くなり完全一致の骨髄を待っている時間が無くなり、HLAの少し違う一座不一致の移植を決心し、講演の日には、移植日が決まっていました。移植後の生存率4割、来年は生きていられないかもしれない、その思いが強かったです。
 講演のときに「皆さんのパワーを下さい、そして来年、今日と同じこの赤いセーターを着ている、元気になった私を見て下さい」とお話をしました。バンクのPRをするときには、私はいつも赤いセーターで参加していました。
 その研修会の時に、皆様で、カーテンを束ねたよりも大きい千羽鶴を折って、私の回復を祈って下さいました。無菌室では、「来年は北海道でお会いしましょう」と携帯電話のメールで応援していただき、発熱や下痢や胸痛の時に、赤いセーターを着て講演をしている自分を想像しながら、来年どころか明日は無いかもしれないと、つらい時間を過ごしました。最初の講演の後から1年間、ずっと応援していただき、今回の秋の研修会の北海道までご招待していただきました。
 私の講演時間は15分間、その前に昨年の研修会のビデオや皆様が千羽鶴を折ってくれている所が大きなスクリーンに流れました。「千羽鶴にするための、千枚の折り紙を集める事が大変だった」とコメントがあり、始まる前から感動の涙で、用意していた原稿も良く見えませんでした。何とか15分ほど話し終わった後、高校生になった娘からのビデオレターが流れました。私に内緒で、福岡営業所の山崎さんが学校の先生と連絡をとり学校内で撮影してくれいました。「あと50年でも100年でも生きとって」と言う娘の言葉にも、驚きと感激でした。バンク登録のお願いをしたというよりも、私の回復のお祝いをして頂いたようでした。
 1年間ずっと応援してくれ、私の回復を願ってくれた事、こんなに素敵な会を開いて頂いた事は、ソニー生命の皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。
 また、九州骨髄バンク推進連絡会議の活動費にと、たくさんのご寄付も頂き、生きている事を実感して、ドナーさんに感謝の気持ちが強くなった北海道でした。

「告知されて(16)」〜寛解宣言〜
 昨年は、病院でさみしい年越しをしましたが、今年のお正月は、自宅で家族と過ごす事が出来ました。紅白歌合戦をゆっくり見て、何でもない当たり前の時間をとても新鮮な思いで過ごしました。
 年末に外来の医師より寛解宣言(‘かんかい’と読み、血液中の異常細胞が消えた事を意味します。この寛解を5年間維持することが出来た時に、完治したといわれています)をしていただきました。
 染色体異常の検査結果のプリントを見て正常細胞100%、異常細胞0%の検査結果を教えてもらいました。
 発病当時は異常細胞が85%あり、インターフェロン投与で6%まで減ったけど、安心する間も無く、少しずつ増えだし移行期の症状が出始めました。
 移植後の検査でも異常が残っていたので気になっていました。検査をする痛みよりも、結果を聞くほうが怖かったのですが、6年間も待ち望んでいた異常細胞0%の数字を聞いてすぐには実感はなかったのですが、診察の帰りの車の中で、「やったぁ」と大きな声で叫びながら帰りました。
 その日はまっすぐ自宅に帰らずに、いつも応援してくれている智佳ちゃんの職場をたずねて、寛解の報告をして一緒に喜んでもらいました。
 しかし新年早々、咳が出始めたと思ったら、発熱し始め寝込んでしまい、まだ体力が回復してないことを感じました。移植から1年も過ぎれば、元の体力に回復すると思っていましたが関節の動きが悪くなり、力が入らなくなりました。
 移植後のGVHD(移植片対宿主病・・・ドナーさんの骨髄液が私の体内で、これは自分の身体じゃないと判断して臓器を攻撃してくる)は私は軽いのですが、味覚も変わってしまい、酸味のあるものが食べれなくなりました。みかんの美味しい時期ですが、子供達が甘いと感じるみかんがとてもすっぱくて、食べることが出来ません。イチゴには、たっぷりの練乳をつけて食べています。
 今までみたいに出来ない事が増えた分だけ、今までどおりに出来る事に喜びを感じています。
 年末に、仲良しだったさゆみさんのご家族から喪中の葉書が届きました。
 お別れした事はわかっていたのに、やさしかった、さゆみさんの笑顔を思いだして寂しさがこみ上げて来ました。
 携帯電話の機種変更をしたのですが、さゆみさんからのメールが残っている古い機種は処分出来ずに今でも充電を続けています。

「告知されて(17)」〜正しい知識を〜
 2月2日に福岡市民会館で、ピアノとバイオリンに合わせて3人の語りと影絵で演じる影絵音楽物語「金色のクジラ」が行われました。1月の末に雪が降って以来、天気が悪く寒い日が続いていたので当日の天気も気になっていましたが、朝降っていた雨も開演前には止み、隣の県立美術館で行われていた3人のメッセージ展と共に、沢山の人出でした。
 そのキャンペーンの中で、ドナー経験をされた記内さんと一緒に骨髄バンクの事を話しました。「血液はどこでつくっていますか?」と会場の方に質問したら元気良く手があがり、「心臓」という答えでした。血液は心臓で造られていると勘違いしている方が多いようです。
 会場で、血液は骨髄と呼ばれるところで造られている事を説明し、その骨髄はどこにあるのかを質問したら、脊髄を指差したり、腰を指差している方が多くいらっしゃいました。血液は骨の中の骨髄と呼ばれる所で造られていて、脊髄とは違う事や、提供時は、一番大きい骨である腸骨から採取する事を説明しました。
 また、登録は骨髄を取るのではなく、血液センターで腕からの10ccの採血で白血球の型を調べる事も話しました。
 実は私も、発病するまで何処で血液が造られているのかなど考えた事も無く、何も疑問にも感じなくて過ごしていました。白血病が血液の病気であるくらいの知識はありましたが、「骨髄移植の必要がある」と医師から言われたときに何処かを切って、何かと入れ替えるのかと思いました。
 バンクを介して骨髄提供のコーディネートが始まってから、提供を断念する理由の中に、ドナー候補の方の健康状態が不良でしかたが無い事もありますが、ご本人には提供の意志があっても、家族や職場で理解されずに提供を断念しなければならないケースが、3割を超えています。登録には年齢制限や健康重視がありますがそれに関係無く、多くの方に正しい知識を持ってもらう事で土壇場のキャンセルは、少なくなるのではないかと感じています。
 金色のクジラの原作の中に「骨髄は腰の所にあってね」という部分があったのですがそれを言うと、骨髄は腰にしか無いように勘違いされるので台詞を「骨髄は全身の骨の中にあって、一番大きい腰の骨から採取する」と言い換えてもらえるようにお願いしました。影絵音楽物語のメンバー達も「正しい知識を広めたい」と思ってくれて、素敵な「金色のクジラ」を演じてくださいました。
 退院して1年過ぎ、順調に回復していたので安心していたら吐き気と胸痛が激しくなり、吐き気を取ってもらいたくて、ゆれる車の中を我慢して夜中の緊急外来にお世話になりました。吐き気が楽になる薬を使ってもらうことになり、薬の名前を聞いたら、以前服用して、全身に湿疹が出た薬だったので、断りました。もうひとつの薬も使えない薬だったため安定剤か睡眠導入剤で眠気を誘い吐き気を忘れるしかないと聞き、眠くなる注射を打ってもらい帰りましたがゆれる車の中では、眠気より吐き気は強くなりました。自宅に帰りつき、朝日が昇った頃にやっと吐き気を忘れて眠れる事が出来ました。
 今後の吐き気でも、眠気を誘って忘れるしかないようです。

「告知されて(18)」〜出会いに感謝して〜
 4月26日、27日に宗像ユリックスで24時間EKIDENが行われました。
26日の朝まで雨が降っていましたが、スタート時間の午後1時には、天気も持ち直し、競技中はずっと良い天気でした。
 今年も我が家は皆で参加して楽しみました。
骨髄バンクチームは競技チームのタスキの他に「骨髄バンクに登録してください」と書かれた黄色いタスキをかけて走っていますが、今年は、ソニー生命チームもバンクのタスキをかけて走ってくれました。
 初参加のソニー生命チームは、骨髄バンクの応援の為に参加してくれてこうすけくんの朝顔の種を配って、登録の呼びかけもしてくれました。
 ドラえもんやトラやサルや女装で走るチームは毎年見られますが、スーツに革靴の営業マンスタイルでカバンまで持って走りその格好がユニークだったので景品に温泉入浴券が贈られていました。
 競技がスタートしてまもなく、ステージでは骨髄バンクのPRがあり32歳の息子さんに骨髄提供を願うご両親がお話をしました。
 MCの古代さんからも、「この中から、提供者が出たらすごいよね」「息子さんの命を救おうよ」と再度呼びかけをしてくれ、27日の登録会では、35名の方が登録をしてくださいました。
 書類が足りなくなり、急いでコピーしましたが、用意していた採血管がなくなり、数名はお断りして血液センターへ行っていただけるようにお願いしました。
 登録会の時間にランナーは「登録会実施中」と書かれたボードを持って走っていましたが、裏に「目標達成しました、ありがとうございました」と書き足してお願いからお礼の報告をしました。
 今年のEKIDEN登録会は、息子さんを思うご両親の訴えとソニー生命の方々のおかげで、予想以上の登録がありました。
 患者会で仲良しになった久美子さんが神戸から応援に来てくれて外周850メートルを合計で30周も走ってくれました。ほんとに患者なの?と思う走りで、夜も寝てないようでした。
 その夜は我が家に宿泊して門司港観光をしました。
 久美子さんに出会った2年前は、自覚症状は全く無かったのですが、理想は25万位の血小板が200万もあり薬の量を増やしたら、5万まで下がり、薬を減らすとまた200万まで増えて、私の体調は急激に悪くなっていました。
 移植の時に久美子さんは、いつも無菌室に応援メールをくれていたので無菌室を出られた報告の電話をしたら、生きている事を一緒に喜んでくれました。
 あれから2年経って辛い治療が終わり、一緒に門司港観光が出来たことで生きていられる事に感謝しました。
 福岡空港まで見送りに行く電車の中で、ドナーさんやお医者さんや沢山の方に、二人で感謝しながら、またの再会を誓いました。
 2回目の病院でお世話になっていた医師が他病院へ移ることになりこれからの診察をどうするのか考えるように言われていました。
 病気が急激に進行しだした2年前に、転院した時の外来担当の医師は保健認可されてない薬を使いたいと希望したら、法律や倫理に問題があるにもかかわらず「倫理や法律よりあなたの命が優先です」とおっしゃって、私の申し出を引き受けてくださり当時、保健認可のされてなかった薬で治療をしてもらいました。
 自宅から近い、最初の病院に戻るのは、移植症例が少なくて不安があったので精神的にも頼れる医師の転勤先の病院に、私もついて行くことにしました。

「告知されて(19)」〜医師との距離〜
 5月17日、18日に横浜市開港記念会館で全国骨髄バンク推進連絡会議の総会とボランティアの集いがあり、参加してきました。
 式典、記念ポスターコンクール表彰式に続き「患者家族が語り始める時」というテーマで朝日新聞の記者の上野創さんが、ガン闘病体験談を講演し、その後、患者、患者家族、看護師、ボランティアがそれぞれの立場でしてきた事と出来ることを発表しました。
 その話しの中で、「ファンギゾン」という液体の飲み薬を飲むのが、つらくて飲めなかった、お医者さんも看護師さんもどんなにつらい薬か飲んで欲しいと言う話しを聞き、私もうなづき、無菌室での出来事を思い出しました。
 移植から3週間くらい経った頃、薬の影響で味覚がなく何を食べても味を感じなかった時に、肝臓の薬の「ウルソ」だけは苦味を感じていました。医師に「何の味も感じないけどこの薬の苦いのだけはわかるよ」と話すと「移植を10年くらい経験してきたけど、その話しを聞いたのは初めてです」と言いました。
 苦味がとてもつらくて飲めないからではなく何の味もしないのに、これだけは味がわかるといった程度の話だったのですが、そんなことを訴える患者はいない事を聞いて皆さんはいろんな事に我慢しているのだと感じました。
 しばらくたって、「ウルソは、喉を通る時に苦いですね」と医師が飲んでみたことを話してくれました。
 担当の医師が私のほんの些細な苦痛を理解してくださったことは、外部から遮断された無菌室でのつらい治療の中で大きな支えでした。
 心の苦痛も身体の苦痛もとってくれたこの医師は退院してからも、メールで私を応援してくれて、回復を喜んでくれています。
 骨髄バンクを介して骨髄が頂けるまでに、患者は平均70万くらいの自己負担をしています。私も、バンクから送られてくる多額の請求書にこれから先の不安を感じながら支払ってきました。移植治療は保険適用ですがそれでも高額です。
 少しでも経済的負担を軽くして、治療が出来るように全国で署名を集め骨髄バンクの利用の金額を保険適用にしてもらえるように運動をしています。遠賀町と芦屋町の役場で行われた、移動献血の時に署名のお願いをしました。署名用紙を見て「バンクはちょっと」や「骨髄は無理よ」と言っていた方も内容を説明すると、快く署名してくれ、両日で150名を超える署名が集まりました。この、沢山の方たちの気持ちが伝わり、一日も早く保険適用になる事を願っています。
 最近の血液検査の結果は、肝機能の数値に少し不安がありますが、それ以外は順調に回復しています。原因はわからないのですが、じっとしていると関節が固まり、動きはじめるのに時間がかかります。
 特に朝は、起き上がるのに苦労していますが、動き始めると苦痛を感じなくなるので、子供達と過ごせる夏休みを、楽しんでいます。

「告知されて(20)」〜活動の広がり〜
 8月のソニー生命の創立記念日に福岡では、骨髄バンクの事を取り上げてもらい映画「いのちのあさがお」の上映と、ドナー登録会をしました。
 今回も、骨髄提供経験者と一緒に
「血液はどこで出来ているでしょうか?」
「骨髄は、どこにあるのでしょうか?」
 と会場の方との対話をしました。
 脊髄と骨髄は違う事、骨を切り取って提供するのではない事、毎回話している事ですが、正しい知識を持ってもらいたくて説明しました。
 説明から4日後に、登録会を行いました。27名もの方が登録してくださいました。
 当日都合の悪かった方や血液センターで登録を希望されていた方も合わせると、50名もの方の登録になりました。26,052円ものご寄付も頂きました。「保健適用の署名」も全国のソニー生命の支社で協力してくれています。
 また今年の秋のMDRTソニー会研修会では、「マローの一人旅」の事を取り上げてもらうことになりマロー100匹の注文もあって、手分けして製作中です。誰が作ったどのマローも、可愛くて何かを語りかけているようです。どこへ行っても、骨髄バンクについての正しい知識を広めてくれるでしょう。
 先日のラジオの放送で、「骨髄移植をしました」という投稿に対して「臓器ネットのカードの骨髄にもに○をつけていると、いつか誰かに骨髄提供が出来るかもしれませんね」と聞こえて「違う!違う!」とラジオに向かって言って叫んでしまいました。
 早速放送局へ電話して、訂正を求めました。
 多くの方たちに、正しい知識を持ってもらえるように活動を続けます。

「告知されて(21)」〜身内の気持ち〜

 兄の急病で、生きていて欲しいと願う家族の気持ちを知りました。
 母から電話で、兄の心臓がどうだとか、手術がなんだかとにかく、百道の病院へ行って欲しいと連絡がありたいした事はないだろうと思いながら1時間程かけて、病院へ行きました。
 病院へ着いた時には、もう手術室に入っていたので状態はわかりませんでした。手術室を出入りする医師が、走れば気になるし歩けば歩いたで、何があったのかと気になり眠れない一夜を過ごしました。
 朝になって、医師から呼ばれ姉と一緒に、ICUに入り口には呼吸器が、鼻にはチューブ、首から点滴を入れてまだ、麻酔のさめていない兄を見たときに大変な状況だったんだとわかりました。
 手術は無事に終わったけど、麻酔が覚めてみないと状態はわからないので、もう少し様子を見ますと医師からの説明を受け、それから2時間、その時間も長く辛い時間でした。再度呼ばれてICUへ入り、青白い顔で寝ている兄の手にそっと触れてみたら、私の手を握り返してくれました。
 もう、動かないかもしれないと思っていたのでその時に、医師は状態の説明をしてくれていましたが手を握り返してくれた事が嬉しくて、何の説明だったのか覚えていません。姉や子供も手を握って、生きていることを確認しました。
 一晩、寝られなかったのですが、生きている手の感触で疲れは、飛んでしまいました。その後の様子は、姉が電話やメールで知らせてくれます。
 「しゃべった」「食事をとった」「歩いた」と普通のことが今までのように出来るようになり、その連絡がとても嬉しく感じています。
 兄の手術中は、私の移植の時に娘にもらったレタックスの「生きろ」を思いだし「生きろ」と願いつづけていました。
 私の発病で、今まで心配をかけ続けた兄や家族の気持ちが理解できたような気がしました。
 私は、移植から2年過ぎ、順調に回復しています。
 今年も、MDRTソニー会研修会に呼んでいただき宮崎へ行ってきました。
 昨年の札幌研修会の時よりも元気になった姿を確認していただき、たくさんの方々に喜んでもらいました。
 宮崎の青い空と青い海はきれいでした。

「告知されて(22)」〜母であること〜
 12月21日から23日まで、天神エルガーラホールで小野寺守君のメッセージと湯口観子さんの絵画展「いのち一杯生き抜いた若者のメッセージ展」が行われました。
 23日には、守君のお母様で小野寺南波子さんの講演もありました。
 2年半の闘病の中で、守君が綴ったメッセージの紹介やお母様のお気持ちを話してくださいました。
 小野寺さんの講演の後、ドナー登録会も行われ、9名の方が登録してくださいました。
 小野寺さんからも「福岡へ行ってよかった、本当に素敵な出会いがありました、ありがとう!」と手紙を頂きました。
 昨年1年間は、体調に大きな変化もなく、入院することなくお正月を迎えることが出来ました。
 12月に、芦屋町で行われた、青少年の主張大会では6年生の息子が「家族で乗り越えた母の病気」という演題で発表しました。その姿は、いつも落ち着きの無い息子とは別人のようにしっかりと話していました。
 「母が家にいてくれるだけで安心でした」と言った時に、幼稚園の頃から満足に母親らしいことをしてあげられなかったのに、と思うと胸が詰まりました。
 学校へ出かける時に具合が悪く、布団の中から「行ってらっしゃい」と手を振った日は帰ってきた時に、座っているだけで、「お母さん元気になったね」と笑顔で喜んでくれたことを思い出しました。
 3月には息子の小学校の卒業式を迎えます。
 発病した7年前には、この日を迎えられるとは思っていませんでした。
 病気で辛い思いをした分だけ、別の所で幸せを感じています。

「告知されて(23)」〜生きていくこと〜
 私の体調を何よりも心配していた父が亡くなり、寂しさの中、慌ただしい日々が続いています。
胸の圧迫と息苦しさを訴えた前日まで毎日、魚釣りを楽しんでいました。その日も、釣り竿に仕掛けや細工をして出かける準備をしていました。その釣り竿は、今でもそのまま置いてあります。急性肺炎で入院し26日間治療しましたが、元気に帰宅することが出来ませんでした。
 雪の舞う寒い日に逝ってしまった父の写真はいつもやさしい笑顔です。
 息子の小学校の卒業式が終わりました。私が発病した時、息子は幼稚園年中の5歳でした。
 7年後の小学校の卒業式まで、生きていられないだろうと思っていたので、卒業式に参加でき、息子の成長を見ることが出来た事は、感激でした。
 慢性骨髄性白血病と告知された時に「私には時間が無い」と感じ、二人の子供達に学校の勉強よりも、生きる為の知恵を厳しく教えてきました。病気と闘う患者として、テレビの取材などにも積極的に応じてきました。
 でも、それは「死への準備」だったような気がします。
 生きている、笑っている私の姿を映像として二人の子供に残したいという思いから受けてきました。
 このバンクだよりも、子供達に残すメッセージとして書き始めました。
 それが、骨髄移植を受けた日から自分でも予測していなかった「生きる」という方向に動きはじめました。ドナーさんがいなければ私もここにいなかった事を思うと、言葉では伝えられない感謝の気持ちでいっぱいです。
 ドナーさんの勇気と骨髄液で、私と家族や友達にたくさんの笑顔が戻った事をいつか伝えたいと思っています。
 身体の小さい息子は、4月からぶかぶかの学生服を着て中学校へ通います。
バンクの活動は、これからも続けますが息子の小学校卒業と一緒に、私もバンクだよりの連載を卒業させていただきます。
(完)
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